彼女の福音
弐拾玖 ― 夢の中でも君の事を ―
「ふぅ。ごちそうさま」
「はいはい、お粗末さま」
あたしはご機嫌な声でそういうと、空になった皿をキッチンに持って行った。そういえばこのキッチンも、本当は陽平のもののはずなのにいつの間にかあたしの使いやすいようになってるなぁ、と思ってしまった。
「でもさ、杏の料理ってトンカツ以外でもおいしいよね」
「えへへ、でしょでしょ〜」
「僕はまた、ボタンの料理の仕方を練習しようとしてトンカツが……ひぃいいいいいいっ!」
あたしが投げた料理の本をぎりぎりでかわしながら、陽平がお馴染みの悲鳴をあげる。
「あはは〜、陽平君、今水道の音でよく聞こえなかったの。もう一回言ってみる?」
「え、遠慮させていただきます……」
「よろしい」
それでも上機嫌は損なわれない。むしろ鼻歌でも歌いたい気分だった。
年が明けて、それで別に二人の間に大きな変化があったわけではない。いつものように陽平のところに遊びに行ったり、二人で買い物に出かけたり、そんな毎日が続いている。でも、そんな何にもないような一日とかがゆっくりだけどどこかへと続くんだったら、それはそれで心地いいものなんじゃないかと思う。
「ねぇ陽平」
「何」
「来週末、また遊びに来てもいい?」
すると、陽平は少しの間黙っていたけど、その後はっきりと拒否した。
「いや、いいよ」
「え、どうして」
「だってさ、ここんところ杏に来てもらってばっかだし。もうそろそろ僕がそっちに行くよ」
去年の年末はクリスマスに大晦日の掃除事件と、何かと光坂に来ていた陽平。そのお返しに、と思って年始からはあたしが陽平のところに遊びに来ていた。
「いいわよ、そんなの気を使わなくたって」
「いや、そうは言ってもさ……」
「でも、ありがとね」
そう言って笑うと、恥ずかしかったのか陽平はごろんとむこうを向いて寝転がってしまった。何だか朋也もそういうところがあるって智代に愚痴られたことがあった気がする。
「仕方のない奴だな、か」
うん。本当に男って仕方のない奴ばっかだと思う。
食器洗いを終わらせてこたつに戻ってみると、陽平はもう寝ていた。
「まったく、人に全部やらせておいて寝てるって、呑気でいいわねあんたも」
返事がないってわかっていても、声をかけたくなった。そしてその隣に寝そべる。
「にしても、ほんとに呑気な顔で寝てるわよね」
んご、という小さないびきが返事に聞こえて、あたしはくすり、と笑ってしまった。
「でも、そんなんでもあたしはあんたと一緒だからね」
もともと陽平にいろんなことを望んでいるわけではない。あたしの傍にいて、あたしと一緒に笑ってくれるんだったら、それでいい。
「あのね、陽平」
寝ていることを確認しながら、あたしは小さい声で言った。
「ずっと……一緒にいれたらいいわよね」
ずっと、ずっと一緒。その言葉の安らかな響きに、頬が緩んでしまう。もうこれ以上緩みようがありません、というような顔が、実はまだ少しだけ、という具合に。
ずっと、二人で笑って、時々真剣なこと話して、時たま二人だけの世界に浸って、二人が三人になって。
「ねぇ、そういうの考えちゃ、だめ?」
そういうことを考えるには、まだ二人の日は浅いのだろうか。ちょっとぐらい女の子らしい想像をするには、気が早いのだろうか。
「もう、返事ぐらいしなさいよ」
照れ隠しに、理不尽なことを言ってみた。すると陽平はぴくっと体を震わせて
「杏……」
「なっ、よ、陽平?!」
思わずびっくりした声が出てしまった。まさか本当に返事をするとは思っていなかった。
「杏……」
「な、何?」
「もう、いいよ」
もう、いい?
それって、どういう意味?もうあたしとはいたくない、無理をしないでいいから向こうに行っちゃっていい、ってこと?無理じゃないわよまったく。あたしを誰だと思ってるわけ?あんたの面倒見るのなんてお茶の子さいさいよ。ま、まぁあんたと赤ちゃんとかになったら、そりゃいろいろあるかもしれないけど……って、まだ早いわよあたし!
「陽平……」
「だからいいって。もういいんだって」
そ、それとも、もう、いいの?そういう話をしてもいいってこと?真剣に将来のこと語り合いたいって意味?そ、その、これって陽平なりのプロポーズなの?そ、そうかもしれない。陽平ってヘタレだし、こういうときにはっきりと言わないかもしれない。いいや言わない。そんな度胸があったらヘタレじゃないし。で、でも、こう、はっきりと「杏、愛してるよ。僕と結婚してくれない?」とか言ってほしいし……
「陽平、あのね」
「だからもう充分。ちょっと待ってったら……」
「そ、そうね。こういうのは焦っちゃだめだって、よく聞くし……」
「今お腹一杯だから。食べられないって」
…………
…………
……ごめん、今何つった?
お腹が?一杯?食べられない?
あはははは、そーよねーそーに決まってるわよねーこれってあれ?ことみのギャグ並みに典型的なアレなわけー?よーへー君ったら、そんな古いネタであたしをてんてこ舞いにさせちゃったわけー?あはははは、そーみたいねー?あんまりおかしいんで、手が
「滑ったぁッぁああああああ!!」
「ぶごへっ!!」
本日の書物は「IT経済と世界恐慌」。中身はぜんぜん読んでないけど、大きさの割りに重かったから買いました。陽平の血潮とのコントラストが映える一冊です、はい。
「な、何だぁ?杏、どうかしたの?」
「さあ?どうもしてないわよ。えーえー、何でもないのっ!」
「あ、あのさ、杏、何だか顔の半分が感覚ないんだけど?」
「さあ?鏡でも見て確認したら?」
「え、あ、うん、そうするよ……って、何じゃこりゃああああ!!ないよっ!僕の顔半分がなくなってるよ!!どうしたんだこれ?!」
「さあ?泥棒猫に盗まれたんじゃない?」
「か、顔って猫に盗まれるものだったんだぁああああ!!」
馬鹿なことを大真面目に言う陽平を眺めながら、あたしはため息をついた。
「で、どうしてまた寝るかしらねぇ」
こたつの上で突っ伏している陽平に、あたしは呟いた。まぁ、それだけ疲れている、とも言えるのだろう。こいつだっていくら頭の中で極楽鳥がハッシシ吸っているようなヒッピーでお花畑でも、残業とか休日出勤とかは疲れるに違いないだろう。
「しょうがないから許してあげるわよ。本当なら彼氏として減点なんだけどね」
ふふっと笑って、寝顔を覗き込んでみた。
「ホント、黙っていたら、結構悪くないのにね」
無論しゃべった途端に全てが完膚なきまでに台無しだけど。
「ン……んん〜〜……」
難しそうな顔で陽平が唸る。
「そんな……どっちって……」
「陽平?」
「おはぎとアンキロサウルスって……違いがわからないよ……」
念のために言っておくと
アンキロサウルス:連結したトカゲという意味の名を持つ、体中が分厚い鎧のような恐竜
あんころもち:あんことお餅のハーモニー
「あんたって、どうしようもない馬鹿よね」
「……ひどいっすね……うーん、キナコも捨てがたい」
どうも音声である程度夢に干渉できるようだった。不意にあたしの口が吊り上がる。
「ねぇ陽平」
できるだけ甘えた声で耳に囁く。
「そんなに悩むんだったら、あたしを食べてみない?」
びくっ、と陽平の体が動いた。
「陽平になら、いいんだけど……?」
「う……んんん……」
ここまではただの怪しい夢。でもカオスはここから始まる。
「でも、その時はボンバヘッをいっぱいかけないとおいしくないわよ?」
「ボ……ボンバヘ……」
「あと、早苗パンを発動させて手札を捨てるの。そしたら謎ジャムを墓地に捨てて、その分攻撃力アップ」
「早苗パン……ずっと僕のターン……」
「そこで魔法の呪文……ぴらりくきらりくぎょぎょぎょぎょぎょ〜、お魚だーい好き、と唱えれば完璧」
「ぴ……ぴか……ぴかにゃー……覚え切れないよそんなのっ!」
目を閉じたままくわっ、とする。時々あたしは自分の彼氏が人間なのか疑いたくなる。
さすがに少しネタが切れたのでうーん、と首を捻っていると、陽平がガバッと起き上がった。
「バルサミコ酢やっぱいらへんでっ!!」
…………
…………
何もしないでも恐ろしい混沌が出来上がっていたようだった。あんまりびっくりしたんで、三点リーダが二つから四つになってしまっている。
「あ、あれ?ここは、僕の部屋……って、わぁっ!!」
陽平があたしの顔を見てざっと数十センチ離れた。
「何よ。あたしがここにいちゃ迷惑?」
「そ、そうじゃなくて……あ、そっか、本物の杏だ」
「本物って……偽者なんていたの?」
「いや、変な夢見ちゃってさ」
まぁ、見させたのはあたしなんだけどね。
「どんな夢?」
「それがさ、目の前にお萩って名前のおばあさんと恐竜がいてね、どっちかと結婚しろ、って言われてさ」
ちょっと待て。お嫁さん?お萩って、あんこの和菓子じゃなくておばあさんの名前だったの?
「そしたら木奈子って可愛い子が来てさ。で、でも、僕には付き合ってる人がいるからって言ったけどねっ!」
その割にはさっき「捨てがたい」とか言ってた気がする。後で詳しく聞かなきゃいけないわね、これ。
「でさ、急にボタンが何でだかわからないけどやってきてさ、杏の声で食べてもいい、って言ったわけ」
ボタンがきたの。へぇ。で、食べるつもりだったの。へえええ。
「でもさ、そのボタンうるさくてさ。ボンバヘソースをかけなきゃうまくないとか、早苗さんのパンを墓地に捨てて、謎の手札を僕のターンにしなきゃいけないとか」
「ふ、ふーん」
ここからは何となく聞き覚えがある。というか、あたしのせいね。
「そんでもってさ、そこに何だかピンクの衣装を着た狐の耳と尻尾の杏が変な呪文唱えちゃってさあ。妙な踊りを踊り始めちゃってもう大爆笑……って、あれ?」
陽平の笑顔が凍りつく。じわりじわりと後ろに下がる陽平。すっくと立ち上がるあたし。
「ふーん。そっかぁ」
「きょ、杏?あ、あはは、あのね」
「あんた、自分の彼女が妙な滑降してウマウマ踊るのを想像して、笑ってたんだぁ」
「ま、まあ待って。落ち着いて話し合おうよ、ねぇ?」
「しかもさっきの木奈子ちゃんの話、まんざらでもなさそうだったわよぉ?」
「え?何でそれ知ってるの?って、やっべ……」
「陽平、口は災いのもとって知ってる?」
陽平の背中が壁に当たり、逃げ場を失った馬鹿は「ひぃ」と小さく悲鳴をあげた。
「まあ、気にしなくてもいいわよ」
「え?」
「これが終わったら……」
瞬時に両手に展開される辞書。これはあたしの修行の賜物だと信じたい。
「どうせ喋れなくなるからっ!!」
「ひぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!!」
数分後。
「全く、あんたの夢ってろくでもないことばかり起きるわよね」
「それってすんごい余計なお世話……何でもないっス」
「だいたい、彼女いるのに他の女が出てくるのってどうなわけ?浮気も同然よそれ。百歩譲って智代なら朋也とセットでだったら出してあげてもいいけど」
「滅茶苦茶だよね、それって……何でもないっス」
「とにかく、もうちょっとましな夢を見ること。特にあたしが出るんだったら」
そう言ってあたしはあたしの膝の上にある陽平の頭を突いた。陽平の頭に乗っかっている氷嚢が揺れる。
「ロマンチックにするよう心がけること。いいわね?」
ふえーい、と気の抜けた返事が返ってきた。